あちこち歩いていると、いろんな人物に出会った。電車に乗っていると隣に人が親しげに「お前は日本人か?」と興味深げに訪ねてくる人、住んでいる人間と間違えられ道を尋ねる外国人。酒場に入るとしつこく日本について聞きたがる人・・・「東京のような小さい街にあれだけの人がいて夜寝るときは重なって寝るのか」と冗談半分に聞いてきてビールをおごってくれる地元民。とにかく面白い、人間バンザイ!!

ステファン寺院の思い出 Stephansdom

オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。107メートルの高さを持ち、世界で3番目の高さがあるそうだが南塔は343段の螺旋階段を登っていく。今まで何回登ったかは覚えていないが、20代の時でもかなりの息切れしたのを覚えている。登りきるとゴクローさんの意味か職員の人が記念に1グロッシェンのコインを頂いた思いでがある。1グロッシェンといったら当時でも何も買えないくらいの小さな単位なので見た事も無かったが、ウィーン市としても残った1グロッシェンコインの始末?に利用したのかもしれない。今でもまだ配っているとは思えないが登った記念としたコインは今どこにあるのだろう。探しても見つからない。
でも登りきった眺めは最高だ、高い建物が無いから遠くウィーンの森まで見渡せる。でも毎回登るたびにどこかしら工事をしているので写真を撮ってもアングルの治まり具合が宜しくない。
北塔はエレベータがついているので簡単に登れるが高さが低いのでまだ1回しか登った事が無い。でも今では階段を上る自信が無いので南塔は避けて通っている。

携帯電話が無かった時代、1シリングで何回も電話が出来た

今では考えられないが、約束した時間に相手がいないとどうしたのか心配にはなるけど「もうちょっと待ってみよう、もう来るだろう」なんて、のんびり構えていた時代があった。今では早く来たら携帯でどこにいるのかをすぐに聞けるので相手と合流するのも用意だ。ほんと便利になったもんだ。
昔はあちらこちらに電話ボックスがあったが、日本で電話をかけると10円で3分間話が出来たが、ウィーンの電話は3分間1シリングだった。日本と違うのはもう一度言うが3分間で1シリングだ、つまり受話器を戻さない限り相手と話し終わったらまた別の番号にダイヤルすと話すことができた。
私もウィーンで公衆電話を使って話し終えたら、後ろに人が並んでいたらそのまま受話器を渡してあげるのがマナーだった。
今でもあるのだろうか・・・・・

寒い冬でも晴れていたら外で食事

ウィーン人ばかりでなく、ヨーロッパのどこでも陽気のいい日は外で食事をする人が多い。ウィーンの街でもケルントナー通りのレストランやガストハウス、カフェの前はシャニガルテンと呼ばれるテラス席が道路の中央に椅子テーブルが置かれ、沢山の客で賑わっている。
ウィーン最初のシャニガルテンは、1754年、旧市街グラーベンに出来たそうで、ウィーンで給仕見習いはシャニと呼ばれていたらしく、「シャニ、ガーデンの準備をしなさい」と言う呼び方がシャニガルテンになったと【Wieninfo]に書かれていた。
ちなみに見習いの事をウィーンではイタリア語のピッコロ(小さい)と呼ばれていてフランスではプチ(小さい)と呼ばれている。このプチと言う言い方が日本に伝わり、プチ=ペテ公と言われて昔のコックさんの見習いは「おいペテ公、ここを掃除しておけ」なんて言われていました。もちろん今では言いませんが・・・
ルディーは40年来の友人だ、全ての人ではないがルディーは外で食事をするのが大好きで寒い冬でもコート来て外で食事をする。私もよく誘われたが、ルディー曰く「アキ、外で食べる食事は美味いだろう」なんてよく言っていたが、ちょっと迷惑だったな。シャニガルテンを見るたび思い出す。

ネクタイはクロアチアから生まれた

4月といえば初々しい新入社員がリクルートスーツにネクタイをきりりと締めた姿が、あちらこちらに見受けられます。このネクタイがハプスブルグ家と関わりが有る事はご存知でしょうか。
そもそもネクタイの歴史は2世紀初頭、ローマ兵が敵地に向かう際、兵士の無事を祈って妻や恋人たちが「お守り」として首に布を巻いたのが始まりといわれています(弁士がのどを守るため巻いた説もある)。
スカーフのような布だったので防寒の意味合いも有ったのでしょう。ローマ兵はクロアチアまで遠征しましたのでクロアチアの習慣として引き継がれました。
そして、16世紀にはハンガリーと共にクロアチアはハプスブルグ帝国の下に組み込まれたのです。勇敢なクロアチア兵はハプスブルグ家の傭兵として雇われ勇敢に戦いました。傭兵は毎回無事に帰還できるかどうかわかりません、兵士の無事を祈って妻や恋人たちがクロアチアの習慣となった「お守り」として首に布を巻き無事を祈ったのです。その頃には首に巻いた布を見るとすぐにクロアチア兵と判り恐れられたようです。その首に巻かれたものはクロアチア語でKravata(クラヴァッタ・(クロアチアの))と呼ばれたのがドイツ語でKrawatte(クラヴァッテ・(ネクタイ))になりヨーロッパに広まったのです。
ハンガリー語でもKravat、ポーランド語でもKrawatといいます。
スーツの原型は軍服から出来ています、コックさんが着ているコック服も軍服が元になっています。この軍服の第三ボタンまでを外して開襟にした状態が今のスーツの原型です。
スーツの左襟にあるバッチ等つける穴は軍服を広げた第二ボタンの名残です。
ヨーロッパ中に響き渡ったクロアチア兵は、その勇壮な戦い振りに「太陽王」と呼ばれたルイ14世が高給で雇い入れ、今度はブルボン家に仕えたのです。フランス語でもCravateと言われるのもクロアチア語からきています。ついでにイタリア語はCravatta、ポルトガル語はGravataです。英語、米語のタイ・ネクタイは世界的に見れば一般的な言葉ではないようです。

第一次世界大戦はこうして始まった

オーストリア皇太子、フランツ・フェルディナンド夫妻の暗殺で第一次世界大戦が勃発した事は皆さんはご存知の事と思います。
これは、1914年6月28日、サラェボで18歳のセルビア人の学生、ガブリロ・プリンチップによってブローニング拳銃で暗殺された暗殺者は6名、一人目二人目と失敗、皇太子の車に爆弾を投げつけたが不発し、後続の車が被害に遭い失敗したと思い三人目・四人目の暗殺者は帰ってしまった。五人目の犯人ガブリロ・プリンチップも失敗したと思い軽食屋に行く、六人目の暗殺者は警官と人が多く皇太子の姿も見る事が出来ないのでこれも諦めてしまった。皇太子は後続車の被害者を見舞うため病院に行く途中、交差点で軽食屋にいたプリンチップが皇太子を見つけ、皇太子の車のステップに乗りブローニング拳銃を手に持ち皇太子と皇太子妃に二発撃ち込んで即死させた。暗殺者六人のほかに見届け人のイリイッチが徘徊している所を警察に尋問され犯行を自供して六人全員が逮捕された。
時に皇太子フランツ・フェルディナンド51歳、皇太子妃ゾフィー・ショティク46歳でした。
この事件はバルカン問題、スラブ民族、ゲルマン民族自決運動など等いろいろな問題がありました。
この暗殺によりオーストリアがセルビアに宣戦布告、これがパン=スラブ主義のロシアとパン=ゲルマン主義のオーストリア、ドイツの激突となり、さらにロシアと三国協商により結ばれたフランス・イギリスの参戦を招いて第一次世界大戦(1914~1918年)となって行ったのです。
そして、第二次世界大戦を始めたのがあの「ヒットラー」です。ご存知のように、「ヒットラー」はオーストリア人です。一度ならず、二度も不幸な出来事を起こしたオーストリア。こんな事で歴史に名を残して欲しくなかったですね。

歴史に「if(イフ)」は、ないといったのは誰だったんでしょうね。

現在のEUを作った日系オーストリア人

1943年の「カサブランカ」という映画はご存知だろうか、50歳以上の方だったら、ああ、ハンフリーボガードとイングリットバーグマンが主演の映画だねと、すぐにお分かりの事でしょう。
若い方々も、「君の瞳に乾杯」とか、「夕べはどこにいたの?」「そんな昔のことは覚えていない」「今晩会える?」「そんな先のことは分からない」なんていう、せりふをどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。実はこのモデルとなった人物が、オーストリアのリヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵の事なのです。
このハンフリーボガード主演の映画、イルザの相手役ラズロがクーデンホーフ・カレルギー伯爵で、実は日本人だったって事は知っていましたか?このカレルギー伯爵のお母さんは青山光子といい、明治時代、オーストリア・ハンガリー帝国の外交官クーデンホーフ・カレルギー伯爵に嫁いだ日本女性なんです。彼女の二男が日本名「栄次郎」という、リヒアルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵なのです。
イングリットバーグマン演じる(イルザ)が一緒に逃避行をするご主人(ラズロ)と酒場の主人(リック)とのモロッコで繰り広げられる三角関係。これが栄次郎と奥様イダ・ローランです。
青山光子は社交界でも有名で、ゲランの香水「ミツコ」は彼女から命名したとか、しないとか・・・・。ちなみにこの香水30ml・3万4650円だそうです。

閑話休題

栄次郎・カレルギー伯爵は欧州統合を目的とする汎ヨーロッパ運動の創始者としても有名です。この思想はやがてEEC、EC、そして現在のEUとなっていったのです。
映画の内容は端折りますが明治時代にオーストリアと関係の深い人物がいて、その人物が世界をも動かしていたなんてすごい事ですね。何処からか、カサブランカの主題歌「As Time Goes By (時の過ぎ行くままに)」という音楽が聞こえてくるようです。

『ご参考までに☆☆☆君のひとみに乾杯・・・その名場面をどうぞ』
君のひとみに乾杯
(映画を見るには、Windows Media Player 7 が必要です)

東ローマ帝国と西ローマ帝国

まずは簡単に、キリスト教の話からしなくてはなりませんね。イエスの生まれた日はご存知ですか。2013年前の紀元元年と思っている方も多いかと思います。実際に西暦とはイエスの生まれた年から数えているのですからそう思うのがあたりまえです。
実は紀元前4年頃と言われています。誕生日も12月25日のほかにも1月説など多数ありますが、今では12月25日で落ち着いていますが生まれは4年ずれているようです。なくなったのは紀元後30年頃です。処刑後弟子のペテロがイエスはキリスト(=救世主)とみなす信仰集団を結成しました。これがキリスト教です。
この教えは階級・民族を超えローマの中に浸透する要素となり、始めは迫害もされましたが、信徒があまりにも多くなりコンスタンティヌス帝はキリスト教を弾圧するよりも、神の保護者になったほうが得策だと考え、キリスト教公認令を出しました。これをミラノ勅令(313年)といいます。
このようにしてローマ帝国の国教となったわけですね。そしてローマ帝国は395年、アドリア海を境に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分かれました。東ローマ帝国はビザンツ帝国として1453年間で1000年以上の歴史を記しましたが西ローマ帝国は100年とは持ちませんでした。西ローマ帝国が滅んだのはゲルマン民族の侵入です。476年、西ローマ帝国は滅んだのです。
そして領内には西ゴート王国、ヴァンダル王国、東ゴート王国など、いくつものゲルマン国家ができました。その中でも481年に成立したメロヴィング朝フランク王国は注目に値します。ドイツのフランク族がライン川、マイン川を越え、旧西ローマ帝国内のガリア(現フランス)の勢力を拡大したのです。フランク族がマイン川を渡った地点は、今、フランクフルトという地名で残っています。  
ガリアに進行したゲルマンフランク族、西ローマ帝国は滅んだのですが、残された市民は同じキリスト教の仲間としてフランク王国を築きました。そしてフランク王国は今の西ヨーロッパをほぼ統一し、ビザンツ王国(東ローマ帝国)と肩を並べるほどの勢力圏を作りました。フランク王国の活躍にローマ教会はフランクの役割を高く評価し、カール大帝を「西ローマ帝国の継承者」とみなし、800年12月25日西ローマ皇帝の即位式がローマ市サン・ピエトロ大聖堂で執り行われました。これが『カール戴冠』です。これで西ローマ帝国の復活です。
ところが9世紀にはいるとカール大帝の孫たちによってフランク王国は三つに分割されそれぞれ西フランク(843~987年)フランス、中フランク(843~875年)イタリア、東フランク(843~911年)ドイツとなります。870年にメルセン条約が結ばれそれぞれが今のフランス、イタリア、ドイツの形になり、10世紀には三つの王国は消滅していまい、西フランクはカペー朝、東フランクはドイツ王国として成立しますが、中フランクは王家断絶で分裂し統一国家イタリアは1861年まで待たなければなりません。
今のイタリアはまだまだ新参者で152年しか経っていないのですね。
今度は東からの遊牧民★マジャール人が大挙してヨーロッパに侵攻してきたのです。ドイツのアウグスブルグ付近のレフィフェルトの戦いで、マジャール人
を撃退したのがオットー一世なのです。この活躍ぶりを見たローマ教皇はフランクにかわる新たな西ローマ皇帝として迎え即位式を行いました。これをオットー戴冠といい神聖ローマ帝国(962~1806年)の誕生です。
オーストリアは1438年、神聖ローマ皇帝の継承権を獲得し、帝国崩壊の1806年まで続きました。

★マジャール人=ウラル山麓を原住地とするアジア系遊牧民。後にハンガリー王国を建国する。
ハンガリー国民は今も赤ちゃんのお尻には日本人と同じ青あざ(蒙古斑)を持っています、FUN(フン族)のガリア浸入に国名ハンガリアの由来があります。








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