人によって様々だろうが、私はルーブル美術館が大好きだ。昔はモナリザの絵の前はガラガラでその上、すぐそばまで近寄れたのでじっくりと鑑賞出来た。ミロのビーナスも周りには人っ子一人いないのでじっくりと見て回れた。そんなミーハーな場所も好きだが歴史上の食にまつわった人物はいないか、当時の食材は何があったのか、当時食べられていただろ果物の絵や食材になるジビエの動物の絵、そんなものを探しにうろうろしている。

パッサージュ(パリの抜け道)

パリの街を歩いていると建物自体が大きいので1ブロップ過ぎないと裏道に抜けるのに遠回りすることがある、パッサージュと言う抜け道が時たまあり重宝した事があった。でもこのパッサージュというものは中々侮れない。
パサージュの起源は、ルイ16世の従兄弟にあたるオルレアン公に遡るとされる。オルレアン公は、1786年にパレ・ロワイヤルの庭園を分譲して店から賃貸料を得た。歩道の整備が進んでいなかった時代に、パサージュは歩行者にとって快適な場所として成功をおさめ、19世紀を中心に建設が流行した。
フランス革命により王侯貴族が所有していた土地が資本家の手に渡り、彼らは再開発の一環として、近道として敷地を通り抜けられる商店街兼通路を作って儲けようと考えた。これが19世紀のパサージュ乱立の契機である。舗装されていない泥道の他の通りに対してタイル等で舗装され雨にぬれる心配も無いパサージュは人々があふれ返り、「散歩する」「ぶらぶら歩く」という楽しみの概念も、パサージュから市民に広まったと言われている。
とウィキペディアに書かれてあったが、当時のパリは動物や人々の糞尿に溢れ、雨でもふったら道路はぐしゃぐしゃになって歩くにも困難を極めた。パサージュが出来た時は市民は雨にも濡れず、歩きにくい道路を避けられるので挙ってこの通りに押し掛けたらしい。
現在ではパリの街は奇麗に清掃されているがパッサージュに集まるファンは今でも多い。

セーヌ川沿いの古本市(ブキニスト)

セーヌ川沿いを歩いていれば必ず目に飛び込んでくるのが古本を並べて売っている屋台だ。ブキニストというのだが、ブキニストが誕生したのは1606年。ポン・ヌフ橋上で始まった露天商たちは今は橋の上から移動して、シテ島とサン・ルイ島に並行する左岸・右岸のセーヌ沿いに店を連ねているのだとか。古本が中心だが新しいものも売っている。観光客を相手にポストカードや少し古そうに見えるアールヌーボー調の雑誌などが置いてあるが観光客目当てなので必ずしも安いとは限らない。掘り出し物を探そうと思ったらまず無いと思って下さい。でも自分の趣味の延長で見つけたい本があったならば、それは貴方にとっては素晴らしい掘り出し物になるかもしれません。もし古本に興味が無ければパリの風物詩として冷やかしてはいかがでしょうか。もしかしたら本当に掘り出し物が見つかったりして・・・・・

モンマルトル

モンマルトルの名は、『Mont des Martyrs(殉教者の丘)』が由来だそうだ。紀元272年ごろ、この丘の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初の司教聖デニス(サン・ドニ)と二人の司祭ラスティークとエルテールの3人が首をはねられて殉教したと伝えられている。
昔は丘の上の修道女たちがワインを作っていて、都市の中でのワイン作りはウィーンとパリだけであったが現在は趣味程度のワイン畑はあるが商売するほどの量は採れない。昔はワインが作られていたのでモンマルトルが飲み屋街になった理由で、今でも飲屋街は残っている。有名な所ではムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台に立っている。
1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の上にサクレ・クール寺院(Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)が、1871年の普仏戦争敗戦後にその償いとして一般の寄付で建設された。白いドームは街中から見えるパリのランドマークになっている。
私が若い頃はモンマルトル近辺はギャングが多く、麻薬の取引が行われていて殺される人も多かった。もちろん昼間は観光客が多く安全だが、夜は一変して暗黒街になった。その当時、興味本位に経験しよとしたが夕方までうろうろして、やっぱり夜は怖そうなので引き上げた思い出がある。

芸術家の集まるモンマルトルの丘

サクレクール寺院の裏手には芸術家の集まる村があった。現在は観光客相手に自画像を描いたり、自分の絵を観光客目当てに商売をする似非芸術家も多い。そもそも19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになったのですが、それは何よりもパリに近くて家賃の安いアパートが多く、彼等はまだ自然の残るモンマルトルの丘にアトリエを構えたようです。19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌したのは有名な話。
パブロ・ピカソ、アメデオ・モディリアーニ、などがモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行い、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。








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